教会の目印といえば十字架です。
地図でも教会の場所を示すのに十字架が遣われているほどに、
十字架と教会は切っても切り離さないものです。
ところが、この十字架は、
元々人間の考え出した最も野蛮な死刑の方法だったのです。
 それなのに何故、
教会は誇りをもって十字架を高く掲げているのでしょうか。
それは神のひとり子イエス・キリストがこの十字架にかかって死に、
それによって私たちの罪を赦し、
救いの喜びを与えてくださったからです。
 イエス様は何も最も野蛮な死刑に値するようなことを
されたわけではありませんでした。
いや、むしろ一つも悪いことをせずに
この世の生涯を全うされたのです。
その十字架は御自分の過ちではなく、
私たちの身代わりとなってかかったもので、
本当なら数々の罪を犯している私たちが十字架にかかるべきです。
でもそうなると、
私たちにはもう希望がありません。
 そこで神様は、
ひとり子イエス・キリストが
私たちに代わって刑罰を受けることをよしとしてくださり、
この方を信じるようにと
私たち一人一人を招いておられるのです。
春、夏、秋、冬と日本は季節の変化の豊かさを感じて
一年を過ごすことが出来ます。
暑い時には早く涼しくならないかなと思いますし、
寒い冬には春を待ち遠しく感じます。
そうかと思えば、暖かい冬ですと、
やっぱり冬は寒くなければと言ってみるなど、
なかなか勝手なことを思いがちです。
でもそれは、私たちの力ではどうすることもできないからこその
つぶやきではないでしょうか。
台風や地震などある程度の予報や予測は出来、
備えることは可能になったとしても、
それを止めたり、なくしたりすることは出来ません。
そのような時、
何でも出来るとおごっている人間の無力さを感じます。
ある時、イエス・キリストの弟子たちは、
普段慣れている湖に出た時、激しい嵐に遭い、
必死に「主よ、助けてください。」と叫びました。
その時、キリストは
「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」
(マタイ8:26)と叱られました。
怖い時、叫び、助けを求めることはいけないことなのでしょうか。
そうではありません。
そうではなく、主に信頼して自分を見失わないこと、
それが大切です。
怖い時こそ、
実はその傍らにキリストがいてくださり、
大丈夫と支えておられることを大きな自然の営みの中で発見し、
すべてのものを収めておられる方に従う信仰をいただいていきましょう。

「律法」

この世の中にはたくさんの規則、決まりがあります。
国の憲法や都道府県の条例、
あるいは職場の決まり事や地域の慣習など、
知らないと大変なことになったり、
迷惑をかけたりすることになってしまいます。
聖書の中にも色々な決まりが出てきます。
もしこれを全部守らなければ呪われてしまうと言うことでしたら、
すべての人がそうなってしまうことでしょう。
でも、聖書の教えは福音、
良い知らせといわれています。
いったいどこが良い知らせなのでしょうか。
新約聖書のローマの信徒への手紙3:28では
次のように言われています。
「人が義とされるのは、
律法の行いによるのではなく、
信仰によると考えるからです。」
つまり、聖書の規則、律法は、
これを全部守れたから天国に行けるといった条件ではありません。
むしろ、出来ない自分を素直に認め、
これほど守れない者でも
愛されていることを知らされるためにあります。
なぜなら、出来ない私のために、
イエス・キリストが代わりにすべてしてくださって、
もう心配いらいなと支えてくださっています。
このことが事実であり、
この自分もその中に入れられていることを信じることが鍵です。
そして、信じたものがその信仰の道を進んでいく道しるべとして、
律法は私たちを励まし、
強めてくれているのです。

「方向転換」

先日、自転車をこいで、
とある場所に向かおうとしていた時のことです。
慣れているはずの道だったのですが、
考え事をしていたからなのか、
全く逆の方向に進んでいました。
道路標識に気づき、慌てて方向転換しましたので、
無事に目的地にたどり着くことができました。
これは小さなことかも知れませんが、
私たちの人生においては、決定的な方向転換が求められます。
そのことをイエス・キリストは
「悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と言われています。
この悔い改めこそ、
まさに180度方向を転換することです。
では、いったいどう転換するのでしょうか。
私たちはとかく自分の力で道を開いてきたと思いがちです。
確かに試験に合格し、
仕事を達成し、
駆け抜けてきたのは、
他でもないこの私かもしれません。
しかし、果たして本当にそうでしょうか。
逆に上手くいかなかったり、しくじったりすると、
回りのせいや時代の状況に逃げてしまいがちです。
いずれにしても、これらは自分中心の思いです。
でもそうではなく、
このように生かされているところに、
世界と私を造られた神の大きな支えがあることに気づき、
感謝して生きていく、
これこそ方向転換して得ることの出来るものです。

「賜物」

 聖書の中に何度となく「賜物」と言う言葉が出てきます。
普段あまり聞きなれないことですが、
聖書が書かれたギリシャ語では「カリスマ」と言います。
最近ではカリスマ美容師、
カリスマ教師などと呼ばれる人がいますので、
お聞きになられたことがあるかもしれません。
 これはその分野の中で特別な技能を持っていて、
他の者とは数段違うレベルにある人のことを指すようですが、
そもそもの意味はそうではありません。
この賜物・カリスマにはカリスという似た言葉があり、
これは「恵み」と言われているものです。
 恵みとは上から一方的に与えられるもの、
つまり、神が私たちを愛して、
特別にくださったものです。
ですから、賜物とは自分の力で獲得するのではなく、
与えられるものです。
こちら側には何の誇りもないのに、
いただいた、
まさに賜るものです。
 そこで新約聖書のローマの信徒への手紙12:6では
「わたしたちは、与えられた恵みによって、
それぞれ異なった賜物を持っています」と言われています。
これが聖書の約束です。
ですから、私には何にもないなどとため息をつく必要はありません。
水は高いところから低いところへと流れるように、
私たちが身を低くし、
へりくだるところに、
必ずあなたならではの賜物を見出すことが出来ることでしょう。

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