従うという時に様々な捕らえ方があるかもしれません。
キリストに従う時、
自分自身の罪に気づかされ、
悔い改めることが求められます。
罪などは自分には無縁だという感覚の中で、
まことの神様を知らずにいたこと、
これが私たちの根本の罪なのです。
そしてこの罪のために本来さばかれるはずであった私たちが、
イエス様の十字架によって
その罪がゆるされたことを信じることができます。
 この十字架は、
歴史的には今から千九百年以上も前に起こったものですが、
それは昔話なのではなく、
私たち一人一人のためなのです。
このイエス様を信じることがキリストに従うことです。
「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。
生きているのは、
もはやわたしではありません。
キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:19、20)
 「仏の顔も三度まで」と言われますが、
たとえ三回でも相手を赦すというのは難しいものです。
聖書が書かれた二千年前にも
三回まで赦せと言うことが教えられていたようでした。
もしかしたら、三回まで赦すというのは世の常識なのかもしれません。
 イエス様は、聖書の中で
「7を70倍するまで赦しなさい。」と言われています。
7を70倍ですから、
7×70で490回となります。
こんなに何回も赦した数を数えることはできませんので、
これは無限に赦しなさいということです。
 でもそのようなお人好しみたいなことは、
とても言っていられないと思われます。
ところが、私たちは既に無限に赦された者です。
それは神様の赦しです。
私たちは残念なことに毎日悪いことをしたり、
心に思ったりします。
これが「罪」と呼ばれるものです。
この罪はどんどん溜まり、
決してなくなるものではありません。
 この「罪」を神様は赦してくださいました。
罪のない御子イエス・キリストが神様と私たちの間に立って、
命をかけて私たちの罪を帳消しにしてくださったのです。
このことによって、私たちは罪赦された者となりました。
これが赦しの大きさであり、
私たちを生かすものとなっているのです。
 聖書は神がひとり子なるイエス・キリストによって
私たちの罪を赦されると約束しています。
そこで私たちはこの方を信じることによって
罪赦された者へと変えられます。
 けれども、それで終わりではありません。
私が赦されていることを確信したなら、
それを毎日の生活で生かしましょう。
私たちの回りにはなかなか相手を赦せないことがあります。
ずっと我慢していて、遂に爆発してしまい、
「堪忍袋の緒が切れた」なんてことになってしまいます。
しかし、イエス・キリストを信じる人は赦された喜びを知っています。
赦しの喜びがあるからこそ、
相手を心から赦すことが出来るのです。
 聖書には
「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。
主があなたがたを赦してくださったように、
あなたがたも同じようにしなさい。」(コロサイ3:13)
 神様が私たちを赦してくださった、
その喜びによって力を得て互いに愛し合う、
これが赦された者の歩みです。
イエス・キリストに従う時、
私たちは「赦し」のまことの意味を
しっかりとつかむことが出来るのです。
 生まれたての赤ちゃんは、
ミルクを飲んでどんどん大きくなっていきます。
でもこのミルクに汚いものが入っていたら、
赤ちゃんはすぐに病気になってしまいます。
ですからお母さんは綺麗に哺乳瓶を洗います。
 私たちは毎日いろいろなものを吸収して生きていきます。
飲み物、食べ物だけでなく、
本やテレビ、
あるいは人の話を聞くことによって多くのことを知っていきます。
もしこの外から入る情報が間違っていたり、
良くないものでしたら、
受けた人も段々誤っているものに染まってしまうでしょう。
 聖書では
「生れたばかりの乳飲み子のように、
混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。」
(1ペトロ2:2)と言われています。
これは私たちが生きていくためになくてはならないものです。
「混じりけのない霊の乳」、
これこそ神の言葉である聖書です。
この聖書が教会の礼拝で説き明かされ、
私たちはイエス・キリストと出合うことになるのです。
 しばらく前、便利なところに大きなお店ができました。
車や自転車でたくさんの人が駆けつけ、
建物の外にまで目玉商品を求めて並んでいました。
その中でも特に女性たちの関心の的になったのが、
大幅に割り引かれた宝石類だったようです。
きらきらと輝くダイヤモンドが
普通では考えられない値段で売られているのですから、
当然かもしれません。
素晴らしい輝きを安く自分のものにしたい、
これは誰にでもある願いではないでしょうか。
 しかし、どんなに輝き、素晴らしく見えても、
時が経つうちに感激が薄れ、飽きてしまうことがあります。
ましてや、
あとで大きく価値が下がったりしたら、
がっかりしてしまいます。
なんと人が求める輝きは空しいのでしょうか。
 しかし、決して値崩れのしないものがあります。
それがイエス・キリストの御言葉の輝きです。
聖書を読めば読むほど、
私たちは御言葉の輝きを感じ取ることができます。
なぜなら、
聖書はまことの光であるイエス様が私たちに生きる目的を教え、
本当に価値あるものとは何かを示しているからです。
この輝きを受けて、
今度は私たちがきらきらと輝いていくところに
私たちの素晴らしさがあります。

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