雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキ小屋ニイテ
東ニ病気ノ子供アレバ
行ツテ看病シテヤリ
西ニ疲レタ母アレバ
行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ
(宮澤賢治)
三井寺HPより
最近、この詩にはモデルがいたと考えられている。内村鑑三の無教会主義キリスト教の信者で、斎藤宗次郎が、その人である。内村の高弟だ。内村の最期を看取った唯一の弟子で、『内村鑑三全集』全二〇巻の編集に尽力した人として知られる。
宗次郎は花巻の人である。地元の小学校の教師をしていたが、キリスト教徒であることを理由に、学校を追われた。学校を辞めた宗次郎は、新聞販売を兼ねる書店を経営し、内村流のキリスト教の伝道を志した。自ら新聞の配達に精を出す。朝三時に起き、雨の日も風の日も、大風呂敷を背負って走った。
配達をしながら、一〇歩走っては神に感謝し、また一〇歩走っては神を讃美した。配達や集金の際には病人を見舞い、子どもたちには菓子を分け、貧困の者には小銭を与えた。出会った人々の悩みに耳を傾け、土地の人たちに慕われた。画家の中村不析は、そんな宗次郎を「花巻のトルストイ」と評した。その後、繁盛する新聞販売店を畳んで東京に出、百姓をしながら内村の伝道に従った。
宮沢賢治の父、政次郎が宗次郎と昵懇の間柄だった。賢治も、宗次郎のことを尊敬していた。彼から内村の話を聞き、『聖書之研究』など内村の著作もたくさん読んでいた。若い頃の賢治はよく教会に行っていたと弟の清六はいう。賢治の叔母二人も、宗次郎に導かれてか、内村の門下になっている。賢治とキリスト教の関わりには深いものがある。