考えれば考えるほど不思議なことですが、このようにこの世に
ただ一つしかない命をいただいて生きているということは、
私たちの思いを遥かに超えた神様のお考えによるとしか
いいようがありません。
 それともう一つ、大切なことがあります。それは「新たに生まれる」
ということです。ある時、イエス・キリストは訪ねて来た者に対して、
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、
神の国を見ることは出来ない。」(ヨハネ3:3)と言われました。
そのように言われた者は、「もう一度母親の胎内に入って生まれる
ことができるでしょうか。」と答えております。
 もちろん、そのようなことは出来ません。新たに生まれるのは、
神の国を見るためだというのです。つまり、イエス・キリストに
まことの神様を見ることこそ新たに生まれることであり、
聖書はこのことを伝えようとしています。
 この「新たに生まれる」ことは私たちだけの喜びとなるだけでなく、
新しく生まれさせてくださったイエス様が誰よりも喜んで、
私たちのことを迎えてくれるのです。
とかく「若い時の苦労は買ってでもしなさい」などと言われます。
確かにそれはお金でも買うことのできない貴重なものでしょう。
ところが、そのことがとかく落とし穴になりかねません。
なぜならば、自分の苦労の経験が他人を見下すことになってしまう
危険性があるからです。
 聖書は「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、
互いに相手を自分よりも優れ者と考え、
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
(フィリピ2:3,4)と教えています。
このことはそう簡単なことではないのかもしれません。
 それだけに、経験は大きな財産ですが、それは同時に誘惑です。
なぜなら、へりくだりを忘れ、相手を自分よりも劣ったものと
見てしまいがちだからです。でも私たちには難しいからこそ、
そのような私たちためにイエス・キリストは見本となって
くださいました。時には弟子たちの前にひざまずき、
その汚れた足を洗うことによってへりくだられました。
でもそれは単によごれた足をきれいにするためではありませんでした。
私たちの本当の汚れである罪をイエス様だけがきよめられることを
示されたのです。
 このことこそ、本当のへりくだりが私たちを生かすということを
教えられます。
聖書の中には奥深いことを伝えるために、
日常生活に密着したたとえ話というものがあります。
特にイエス・キリストはこのたとえ話を多く使って
大切なことを語ってくださいました。
その中でも大半を占めるのがお金に関するものです。
それだけ日頃の生活において欠かすことの
出来ないものだからかもしれません。
 さらにいうならば、それは借金としてたとえられます。
いったい何が借金なのかといえば、私たちが神様の教えを
守ることが出来ないこと、罪のことです。
私たちがしてしまったことは後で消し去ることは出来ません。
でも、借金であるならば、誰かが代わって支払ってくれるならば、
なくすことが出来ます。
 イエス様の十字架は、身代わりの刑罰だと言われます。
本来ならば、他でもない私の罪という借金なのですから
私自身に支払いの責任があります。
けれども、私たちは少しでも帰すどころか、
ますます大きく膨らましているのです。
 だからこそ、イエス様がその罪を代わって負ってくださり、
その借金をすべて帳消しにしてくださいました。
この私たちにしてくださったことをはっきりと示すために、
多くのたとえ話が語られました。
私一人のためにどれほどのお金がかかっているのか、
それをイエス様との関係で、しっかりと思い巡らしていきましょう。

ありがとう

 日本語で最も美しい言葉と言われていますのが、
「ありがとう」だと言われています。
そもそもこの言葉は「ありがたし」から出てきたもののようでして、
この「がたし」というのは難しいという意味です。
ですからめったにありえないことが起こったことが
「ありがとう」ということです。これが感謝の心です。
ですからここにはやってもらって当然、あって当たり前
というところからは感謝は生まれてきません。
 聖書の中に「どんなことにも感謝しなさい。」(1テサロニケ5:18)
とあります。
でもこの言葉だけがぽつんとあるのではなく、
そのあとに「これこそ、キリスト・イエスにおいて、
神があなたがたに望んでおられることです。」と続いています。
 私たちの毎日の生活の中には、
それこそありがたくないことがたくさんあります。
とても「どんなことにも感謝しなさい。」とは言えない気がします。
しかし、今、こうして生かされているところに、
ありえないことが起こっているのです。
それがイエス・キリストが私の罪のために身代わりとなって
死んでくださったことです。
 とても出来ないことを、イエス様があなたのためにしてくださった、
このことに対する応答としての感謝を持って生きていくこと、
「これこそ、キリスト・イエスにおいて、
神があなたがたに望んでおられること」なのです。

基本に忠実

まもなく大相撲7月場所が開かれますが、
以前、解説者が次のように言っていることがとても印象的でした。
「一番強い人が一番基本に忠実だから強いはずだ。」
それは「しこ」、「てっぽう」、「ぶつかり稽古」など、
お相撲さんにとって最も基本となる稽古に
忠実に励んでいるということでした。
基本は面白いものではありません。
とかく煙たがれ、派手なものを求めたくなりがちです。
けれども、その表にあらわれるものの背後に、基本の積み重ねがあり、
いかにこれに打ち込むかがポイントです。
 ところで、この基本は、「基になる本」という字です。
本に基礎をおくと言い換えてもよいでしょう。
本に基礎を置く、これこそキリスト教の生き方です。
「ザ・ブック」、本の中の本といえば、それは聖書です。
それではというので、いざ聖書を読んでみますと、
漫画のように面白くありません。絵も写真もなく、
聞いたことのない人の名前や地名がカタカナで次々と出てきます。
しかし、そこであきらめないでじっくりと読んでいきますと、
やがて一つの出会いが起こります。
それが聖書の主人公キリストとの出会いです。
基本に忠実に、そこに私たちの土台となる方との出会いがあり、
私たちの魂の潤いがもたらされるのです。
「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、
その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
(ヨハネ7:38)

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