今年は冬のオリンピック、サッカーのワールドカップなど、
4年に一度の大きな大会が開かれました。これらはかつて
参加することに意義があると言われたものですが、近頃は
ますます国や個人の名誉のために勝つことが求められています。
 この大会に勝つために、選手たちは厳しい練習に耐えてきました。
事実、勝った者は英雄となり、敗れた者は非難を浴びることさえ
あります。でもスポーツの大会の難しさは、
必ずしも強い者が勝つとは限らないと言うことです。
 「勝つことは貯金を下ろすことである。強くなることは
貯金を積むことだ。」という言葉を聞いたことがあります。
今の時代、どの分野においても人々は勝つことにこだわります。
ですからあの人はこの手で勝ったとなりますと、
その方法をまねようと一生懸命に情報収集し、
かえって自分の良さを見失ってしまいます。
つまり、せっかくの貯金を使い果たしてしまうのです。
 果たして本当の強さとは何でしょうか。
それは目先の勝利にこだわるような生き方ではなく、
しっかりとした人生の土台を持ち、
私たちの行く先を知っていることです。
この答えを確かに示してくれるのが、
生ける神の神の御言葉である聖書なのです。
 何でも自分中心に行ったり、自分の欲のままに行うものを
罪と言います。その罪がさらに大きくなって人を押さえ込み、
真理が捻じ曲げられようとするならば、
私たちはいったい何に頼ったらよろしいのでしょうか。
聖書は次のように語っています。
 「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。
むしり、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
(マタイ10:28)
 このように恐れるなと言われますと、ますます恐ろしくなって
しまいそうな気がします。でもこの言葉は、どんなに私たちが
価値ある存在であるかを教えているものです。
なぜなら、この方は私たち自身でも分からない髪の毛の数さえ
ご存知なほどに私たちのことを知り、愛してくださったのです。
本当に私たちの魂も体も支えておられるのは、
この主なる神様です。この方の教えが歪められることなく、
まことの教えが貫かれることを切に願います。

私たちの慰め

 来週には彼岸を迎え、「暑さ寒さも彼岸まで」の季節の
変わり目となりました。全国各地のお墓にはたくさんの人が
お墓参りに行かれることでしょう。
そこではお花やなくなられた方の好んでいたものがささげられ、
線香が焚かれ、死者の霊が慰められると言うのです。
 ところが、聖書にはこの考えは出てきません。
亡くなられた方を火葬し、墓に葬り、墓に行くことはあります。
けれども、神様の教えが広がり、いろいろな迷信や異なった
宗教と戦う中で、最も戒められたのが、この死者の霊魂を
慰めることだったのです。
なぜなら、死と言うのはまだ私たちの思いが届くところに
行くのではないからです。もう全く別のところ、
この世の私たちとはもうコミュニケーションの取れない場所に
行ってしまったことなのです。
 その場所とは私たちの命を造られた神様のところです。
もうこの完全な方のところに行かれたのですから、
私たちが供養してどうなるというのではありません。
まったきお方のところでまことの慰めをいただいて平安を
与えられる、これこそ聖書が約束する確かな約束なのです。

神に近づく者

 9月は学校の新学期であり、国によっては年度の
始まりでもあります。このような節目にありますが、
旧約聖書に出てくるアブラハムは、一つの節目を迎えるにあたり、
「主のために祭壇を築いた」(創世記13:18)のです。
これは神様を礼拝したと言うことに他なりません。
 私たちが神様から祝福を受ける秘訣は、何と言ってもこれです。
私たちには何で祝福が乏しいのかとつぶやきたくなる時が
ありますが、そこには、神様に思いを向けない、
出てくるのは愚痴ばかりという祭壇を築かないことがあります。
私たちの思いで祝福がないことを愚痴るところから、
神様がおっしゃっていることへと整えられていく、
これが鍵のようです。
 「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神が存在しておられること、
また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、
信じていなければならないからです。」(ヘブライ11:6)

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