10月31日は宗教改革記念日と呼ばれます。
それは1517年のこの日に、マルティン・ルターが
教会の扉に95か条にわたる抗議文を掲げ、
教会を改革しようとする運動が本格的に始まったからです。
 いったいルターは何をしようとしたのでしょうか。
それを一言で言えば、キリスト教会を聖書の教えどおりに建てる
ということでした。聖書を通して神様が語っておられることを
人間の都合によって曲げ、神様の語っていないことを付け加え、
知らず知らずのうちに教会がおかしくなってしまいました。
そこでもう一度聖書をしっかりと読み、
正しい教えに基づいて教会を建て、信仰生活を守ろうとしたのです。
 この歴史の教訓からもわかりますように、聖書の教えを
人間の感情で、これは嫌い、こんな言葉は聞きたくない、
この教えは変えた方が都合が良いなどとしていきますと、
いつの間にか神様の教えではなく、人間の考えとなってしまいます。
 その結果、たとえどんなに素晴らしいと思われたとしても、
出来上がったのはキリスト教会でもクリスチャンの信仰生活でも
なくなってしまいます。
私たちの思いではなく、神様の思いに生きる時、
私たちは聖書で約束されている様々な祝福にあずかることが
許されるのです。
 秋たけなわといった感じですが、この時期は自然の豊かさを
実感できる気候ではないでしょうか。ところが、自然界の営みは
私たちの思いではどうすることも出来ないもので、
喜んでばかりはいられません。明日はどうしても晴れて欲しいと
願っても大雨になってしまうことも、
1日違いで気温が10度以上変わってしまうこともあります。
それどころか、大きな災害をもたらすことさえあり、
人間の力の小ささを思い知らされます。
 このような自然の力を一言で収められた方がおられます。
それは激しい嵐を静められたイエス・キリストです。
その時、一緒に舟に乗っていた弟子たちの多くは、漁師であり、
嵐の中でも舟を操ることには慣れていました。
しかし、それを超えたものが襲って来た時、
彼らはただただ「助けてください。おぼれそうです。」
叫ぶしかなかったのです。
 人間には決して超えることの出来ない自然をも
収められるとしたら、それはこの世界を造られた神様以外に
考えられません。
でもイエス様は大きな力で私たちを圧倒されるのではなく、
毎日の生活の中で「助けてください。おぼれそうです。」
と叫ぶ私たちにまことの平安を与えてくださるのです。
自分の力では出来ないからこそ、私たちにはすべてを
イエス様に委ねて従っていく道が備えられているのです。
 「人間の心は自分の道を計画する。
主が一歩一歩備えてくださる。」(箴言16:9)
 私たちは自分のしたいことや好きなことをする時には
夢中になってあっという間に時間が過ぎてしまいます。
これに対して、嫌なことを渋々行う場合は充実感もなく、
楽しくありません。しかし、私たちはいつもやりたいことだけを
していればよいのではなく、気の乗らないことも多くあります。
よくやりたいことをやるのは子ども、
やるべきことをやるのが大人などと言われますが、
そこには何か悲壮感があります。
 けれども私たちの働き、毎日の歩みには
いつも寄り添ってくださる方がおられます。
私たちがこうあれと願っても、
必ずしもそのようになるとは限りませんが、
思い通りにならないからこそ、その私たちの不平や煩い、
イライラに共感し、一歩一歩共に歩んでくださるのです。
この方こそ、聖書の主人公とも言うべきイエス・キリストです。
聖書からこの方の存在を知ることが出来るのは
何と幸いなことなのでしょうか。
 「わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものは
こぞって聖なる御名をたたえよ。」(詩編103:1)
 私たちは本来、私たちを造られた主なる神様をたたえ、
与えられている魂も体もこぞってこの方に向かっていく光栄を
与えられています。それにもかかわらず、私たちの中には
自分でも嫌になってしまうほどの醜いものがあり、
思い通りに行かないとムッとして都合よく神を利用しようと
してしまいます。それだけ神様に逆らう罪が染み付いている
何よりもの証拠です。
もはやこれは自分の力ではどうすることも出来ないものです。
 だからこそ、私がこぞって神様をたたえるために
イエス・キリストが私を生かす本当の命を与えてくださったのです。
私の思いではまっすぐに神様に向かうことが出来ずに
別の方向に行ってしまったり、歪んだりしているものを、
きちっと伸びるようにと支えてくださっているのです。
 自らの内にあるものに思いを寄せ、この私が本来の人としての
素晴らしさを取り戻すためにキリストがしてくださったことを
じっくりと見つめるこの秋としていきましょう。
 ある宮殿の庭の植物たちがどうも元気がありません。
でもほどなくしてその原因が分りました。美しいバラが、
あーなんで私は一時しか咲かないのだろう、
おまけにきれいなバラにはとげがあるなんて悪口を言われて。
それに比べたら杉さん、
あなたは立派になってお家の材料になって
役に立てるではないですか。
いやいやとんでもない、花粉症なんて言われて肩身の狭いこと。
それに比べたらブドウさん、
あなたは豊かに実を実らせておいしいおいしいと
喜ばれていいですね。
いやいや、私なんか満足に立てないのですから
棚など作ってもらって情けない、それに比べてなどとやっていますと、
明日までかかっても終わりません。
ところが地面にひっそりと、しかし生き生きと桜草が
咲いているではありませんか。
私は桜草、桜草として咲くようにと期待されているのだから
精一杯ここに咲きますよ、と。
 そうです。この私が私として輝きたい、
それは人と比べて一喜一憂する人生に別れを告げて、
私を私として造り生かしてくださっているところの、
唯一のまことの神様によって可能となる世界がここになります。
この自己中心ではなく、
神に従う人生がどれほど素晴らしいかを示してくださったのが、
イエス・キリストなのです。

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