私たちの救いは、イエス・キリストが身代わりとなって
罪の償いをしてくださったことに確かな保証があります。
とにかくイエス様の生涯がこのためであったと信じること、
これが信仰によって救われるということです。
 でもどうしたら、そのようなことが信じられるのでしょうか。
イエス・キリストがしたことは昔のことであって、
別に私が頼んだわけではありません。
ですから私との関わりをどうしたら持てるのでしょうか。
これは私たちの力では出来ません。神様がイエス様を信じる信仰を
私たちの心の中に芽生えさせてくださるからこそ信じられるのです。
 自分で救うことが出来、神様の律法を全て守り、
全く正しい人であれば、キリスト教は必要ないでしょう。
しかし、現実にはそういう人は一人もいません。
そこで神様は私たちの心の中に信じる力を与えてくださいました。
それは聖霊です。
この方こそ、私たちに信じることにこそ望みがることを気づかせ、
信じることが出来るようにしてくださるのです。
これこそ、神様から私たちへの大きなプレゼントです。

神の知恵

 とても極端な言い方ですが、人間には何でも出来るという思いが
どこかにあるかもしれません。けれども人の知恵ではどうしても
到達することが出来ないものがあります。それが神の知恵です。
 聖書をはじめから読んでいきますと、そこには絶えず、
人が神を超えようとする思いが色濃く出ています。
それはまさに人間には何でも出来ると言う心が表れていると
言えるでしょう。
 けれども、どれだけ頑張っても行き着くことが出来ないのが、
イエス・キリストの十字架によって救われると言うことです。
これは人の知恵で理解できるのではなく、
ただただ神様が教えてくださらなければ捕らえ尽くせないものです。
 実際、イエス様の十字架はかっこいいものではありませんし、
逆に人々からののしられ、あざけられたものでした。
でもその惨めな姿は、ののしり、あざける者たちの心の状態、
つまり罪の汚れ、そのものです。この時の十字架が惨めだったのは、
そこに私たちの罪を負ってくださった、
その救いの完成があったからです。
 人の思いでは考えられない神の知恵、
それがイエス・キリストによる十字架の救いです。
この十字架に、決して私たちでは到達することのない神の知恵を
はっきりと見いだしていきたいものです。

神の愚かさ

 その言葉を聞いただけでよい反応を示したり、
逆に嫌な気分になったりすることがあります。
たとえば「賢い」と言われたら嬉しいのですが、
逆に「愚か」などと言われてしまったらどうでしょうか。
 確かにいい気持ちはしませんが、この言葉を使って、
聖書は最も大切なことを教えてくれています。
それはイエス・キリストの十字架のことです。
しかもこれを伝えることについても愚かな手段と言っています。
 イエスが十字架につけられた、これを人々は愚かだと思いました。
なぜなら、神であるのに何と無力なのかと絶望したからです。
ですからつばをかけたり、汚い言葉でののしったりしたのです。
けれども、その惨めと思える姿こそ、
私たちの身代わりだったのです。
 イエスの十字架に向かって浴びせられるののしり、
それこそ知らず知らずのうちに心の奥に溜まっているものです。
それを聖書では罪と呼んでいます。
その自分でも気づかない、また抑えきれないものを、
イエス・キリストがすべて受け止めて、
この罪からの解放をしてくださったのが十字架です。
 その姿は愚かに見えるかもしれません。けれども、
その愚かさが私たちのためであるということを知らされるのは、
本当の賢さを得ることになるのです。
 この時期は学園祭、文化祭などが各地で盛んに行われています。
そこにはさまざまなお店があり、
食べ物や飲み物、手作り品などたくさんのものがあります。
そしてそれらの売り上げをそれぞれの団体の活動費にしたり、
時には何かのために寄付することもあるようです。
 ところが、時にはあまりにもお金儲けのことばかり考えてしまい、
お祭りを楽しむなどという思いはすっかりなくなってしまうことが
あります。これはとても残念なことです。
 イエス・キリストが活動されていた時、
人々は神様を礼拝するために神殿というところに集まってきました。
礼拝の時にささげものをするのですが、
遠くからの人たちのことも思って、
そこにはささげ物を売っているお店が出ていました。
一見便利でありがたい感じですが、
これをご覧になったイエス様は大変お怒りになりました。
「わたしの家は、祈りの家でなければならない。ところが、
あなたたちはそれを強盗の巣にした。」(ルカ19:46)
とまで叱られたのです。
 物や商売がいけないのではありません。
それに心を奪われて大切なものが見えなくなってしまう、
それが問題です。神様を礼拝する所、そこに集う一人一人の心、
それが本来の目的から離れてしまって形だけになる時、
それは神様にとって大きな悲しみです。
心向ける時に、しっかりと自分の心を注ぎ出していきましょう。

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