25日のクリスマスを過ぎますと、
街はあっという間に松飾りになります。
徹夜で飾り直しをしたところもあったかもしれません。
気持ちを切り替えて次のことに向かっていくことは
とても大切なことですが、
クリスマスにいただいたものをすっかり忘れてしまうとすれば、
下さった方に対して失礼になってしまいます。
 一体、私たちはクリスマスに何をいただいたのでしょうか。
それは私たちを造られたまことの神様から私たちが
どんなに愛されているか、
このことを具体的にプレゼントしてもらいました。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、
わたしたちが生きるようになるためです。」(1ヨハネ4:9)
とあります。もちろん私たちは今も生きています。
それにもかかわらず「わたしたちが生きるようになるためです。」
とあるのはなぜでしょうか。
 それは人間として本当の姿を回復して生きると言うことです。
私たちの罪を解決し、まことに人間として生かすために、
イエス・キリストは
「わたしたちが生きるようになるため」に来てくださったのです。
年末年始の慌しさの中、
いただいた恵みを忘れることなく日々過ごしてまいりましょう。
 早いもので今年もあと1週間となりました。
今、街はまさにクリスマス一色といった感じです。ここ数年、
何とか長い不況から少しずつ脱しようとしているとも言われ、
年末のクリスマス商戦も盛んに行われています。
 その華やかさの中にあって、
私たちはクリスマスの中心であるイエス・キリストの誕生を
しっかりと見据えたいものです。
クリスマスの前にも何千年という人類の歴史があったのですが、
この時を境として
B.C.(紀元前)=キリスト以前、
A.D.=主の年と分け、
新しい時代が訪れました。
なぜなら、この時に人類を罪から救う救い主が来られ、
神を知らず、救いなど自分とは関係ないと思っていたところに
新しい道が開かれたからです。
 毎年、忘れ去られることなくクリスマスが訪れ、
今年もこの時を迎えました。私たちを罪から救うために来られた
イエス・キリストの誕生を心からお祝いし、
クリスマスを喜びましょう。
 私たちは喜んだかと思えば悲しみ、
浮かれたかと思えば沈み込んでしまいます。
そして、とかく他人が幸せであると妬み、
失敗するとほっとしたり、どこかで喜んだりしがちです。
人の喜びを自分の喜びとすることが出来ない私、
人の悲しみに添えない私。
振り返りますと、何と私たちの心、思いは醜いのでしょうか。
それは自分の力ではどうすることも出来ないものです。
 でも私の力では駄目であっても、
他の人が解決してくれることがあります。
たとえば、私の借金を自分で返すことが出来なくても、
保証人が代わりに払ってくれて帳消しになることがあります。
私の力ではそうすることも出来ない醜い思い、
それを罪といいます。私ではどうにも出来ないからこそ、
その罪を解決する方がおられます。
その方は自分の民を罪から救う方と言われます。
 この自分の民こそ、私の醜さ、
心の貧しさで悩んでいる一人一人のことです。
それを自分ではどうにも出来ませんので、
この方、イエス・キリストのところに持っていく時、
私たちはこの方の民とされます。
そして、「あなたの罪は赦された」、「安心して行きなさい」
(ルカによる福音書7:48、50)と平安を与えられるのです。

言は肉となり

 私たちの目には見えない神様は、イエス・キリストという
完全な人間の姿になられてこの世へと来られました。
そして人間と共に生活し、やがて亡くなられました。
いったい何のために神様が人となられたのでしょうか。
それは私たちの罪を全て赦し、救ってくださるためです。
神が人となられた目的は、
ただただ私たちの救いのためにあります。
 でもこのことは、イエス様が亡くなった後、
三日目に復活されてやっとわかったことです。
イエス様と三年間も一緒に行動していた弟子たちでさえ、
イエス様が復活されて教えてくださるまでは
よくわかりませんでした。
 幸い今の私たちには聖書がありますので、
聖書によってイエス様が人となられたことを
正しく知ることが出来ます。
神様はご自分のことを嫌い離れている者を救うために、
わざわざ人の姿を取られ、
私たちと同じレベルに立ってくださいました。
そして人間にわかる言葉と行動で神とは何か、
罪から救われることがどんなに素晴らしいかを
示してくださったのです。
 この出来事を、聖書は「言は肉となって、
わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。」
(ヨハネ1:14)と記しています。
これこそ、クリスマスに起こったイエス・キリストの誕生です。

身代わり

 私たちが何か悪いことをした時、
その償いを求められても仕方ありません。
何とかして許しを乞い、罪を清算しようとします。
でも、どうしても私自身の力で償うことが出来なければ、
どうしたらよいのでしょうか。その時は身代わりを立てて、
代わりにその人に清算してもらうことが必要です。
じつはイエス様が十字架で死んでくださったのは、
この私たち一人一人の「身代わり」としてなのです。
 神様は清く正しいお方ですので、
罪に対してきちんと罰を下されます。
ですから、本来なら私たちが罰せられてしまうのですが、
イエス様が十字架にかかってくださることにより、
償いがよしと認められたのです。
 でも、イエス様が身代わりになられたのは、
私たちが頼んだからではありません。
神様が一方的に私たちを愛してくださって、
イエス様を身代わりとして立ててくださったのです。
このように人間が、いや私が罪の償いを求められつつも、
神様の方から身代わりを立ててくださった方として
イエス様がおられることを信じるところに救いの道が
開かれているのです。

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