一番偉いのは

 程度の差こそあれ、誰かに認められたいという思いは
どなたにもあるのではないでしょうか。
そして願わくは人以上に認められたい、
偉くなりたいという思いも出てきます。
これはイエス・キリストの弟子たちにとってもそうでした。
弟子として同じような働きをしていただけに、
そのような思いが強かったのかもしれません。
 そのような弟子たちに、イエス・キリストは
「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」
(ルカ9:48)と言われました。
小さい者は弱い者、価値の小さな者という捕えの中で、
まるで正反対のことがそこで言われています。
それだけこの課題は簡単なものではありません。
いや、私たちの心の内から解決できるものではないのです。
 このことを教えられたイエス・キリストは、
本当の偉さを教えるために、やがて弟子の足を洗うという、
まるで当時の家の使用人が行うかのような行動を取られました。
そればかりか、遂には十字架につけられることによって、
最も小さい者によって最も尊い救いの栄光が示されたのです。
 このように私たちの力では
偉さの追求を解決することは出来ません。
それはただただ、イエス・キリストを見上げ、
この方によってもたらされた救いに生かされることによって、
まことの謙遜を与えられることによって得られることなのです。
 この世の中で裁判官は大きな権力を持っています。
なぜなら、たとえ国王や大臣であっても
悪いことをしたら有罪と宣言するように、
人の人生に重大な判決を下すことが出来るからです。
 しかし、この裁判官もやはり人間ですから、
誤った判決を下してしまうこともあるでしょう。
本当に人が人を裁くことは大変なことです。
 イエス様は正しく人間を裁くことがお出来になります。
でもイエス様は裁くことより赦すことを願っておられます。
私たちが自らのことを悔い、
「イエス様、助けてください」とすがるならば、
赦してくださる力のあるお方、
それがイエス様です。
 では赦されたならどのような良いことがあるのでしょうか。
一つには罪の縄目から解放されるということです。
もう完全に赦されたのですから、
恐れずに歩んでいくことが出来ます。
さらに、赦してくださった神様に感謝して
喜んで従うようになるということです。
 このように罪を完全に裁くことの出来る方だからこそ、
私たちを信仰の道へと招いてくださっているのです。

熱心に祈る

 イエス様の弟子たちの内、何人かは漁師でしたので、
早起きには慣れていました。
でも、その弟子たちでも驚くほど早くからイエス様は起きて、
行動を開始されていました。
ただ、それはまずお祈りをして一日を始めることに
徹しておられました。
それだけイエス様は熱心に祈られる方であり、
聖書の中にはイエス様が特に困難な場面にぶつかった時に
祈られた様子が記されています。
 イエス様は、自分が進んでいかれる先に
人間的に見て楽な道と困難な道が用意されている場合に
良く祈られました。
結果的に、
イエス様はいつも困難な方をお選びになったのですが、
それは祈ることによってのみ、
神様の御意志に従うことが出来ると知っておられたからです。
 祈りは神様に全てを委ね、
困難を乗り切る力を与えてくれます。
神様の導きに心から信頼し、
祈るところに今日の自分が築かれていくのです。

新しい教え

 新しい年を迎え一週間ですが、この新しいという言葉は
何か良いイメージを心の中に与えます。
でも時が過ぎ去ってしまいますと、
その新しさはなくなり、
古くなってしまうでしょう。
 イエス様が初めてお話をされた時、
人々は、それは新しい教えだと言って驚きました。
でもイエス様の教えは時代が変われば古くなるというものではなく、
これまでのものとは全然種類が違うということで新しかったのです。
どのように新しかったのかと言えば、
イエス様の語る一言一言は、
神様の言葉そのものだったために全く新しかったのです。
神様の言葉を伝えた人は他にもいますが、
神様の言葉そのものを権威をもって自分の言葉として語られたのは
イエス様だけです。
 ですから、イエス様の言葉は
この世にあるたくさんの教えの一つなのではありません。
私たちの人生を根底から支え、
私たちを生まれ変わらされる、
全く新しい教えです。
 「人々は皆驚いて論じ合った。
『これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。』」
(マルコ1:27)

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