神様は清く正しいお方ですから、
私たちの犯す罪を嫌われます。
でも、イエス様が私たちの救い主として
罪の赦しをもたらしてくださいましたので、
私たちの犯してしまう罪は赦されます。
これが聖書のメッセージです。
 でもイエス様は、「聖霊に言い逆らう者は、
この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ12:32)
ともおっしゃっています。
これは赦されないものの例外なのでしょうか。
イエス様の赦しの届かない範囲があるのでしょうか。
 そうではありません。イエス様が語られてきたことは、
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」(マタイ4:17)
と言うことでした。
つまり悔い改めることによってすべての罪が赦されるのです。
ところが、聖霊に言い逆らうことは
この悔い改めを起こしてくださる聖霊を拒否することなのですから、
当然悔い改めも起きません。
 もしもとても赦されないようなことをしてしまったと
悩んでいるなら、その様な人こそ赦される人です。
イエス様が願っておられるのは、
このように罪を罪として認め、
悔い改めることです。
この約束に従う時、
赦された者の喜びにあずかることになるのです。
 日本では三月が年度末ですので、
それでなくてもあわただしい毎日が続きます。
今年、ちょうど新しい年度を迎える一週間は
キリスト教会にとりましても特別な一週間です。
それはイエス・キリストが十字架にかけられたことを
深く瞑想するための時だからです。
 新約聖書のはじめの四冊は、
イエス様の行動や語られた言葉を記していますが、
これはイエス様の生涯をまんべんなく書いているのではなく、
だいたい全体の三分の一程度が最後の一週間に集中しています。
この一週間を受難週と呼び、
イエス様の十字架に思いを寄せようとしております。
 そもそも十字架と言うのは、
非常に重い罪を犯した者がかかる死刑でした。
ところが、イエス様の語られた言葉や生涯を見れば見るほど、
そのような大きな罪どころか何一つ悪いところは見当たりません。
 それにもかかわらず十字架にかかられたのは、
私たちの醜い思いを全部背負ってくださり、
代わりに責任を取ってくださったからなのです。
ちょうど一円の借金もない人が莫大な他人の負債を全部引き受けて、
それをすっかり返してくれたようなものです。
現実にはとてもありえないようなことですが、
それがイエス様の十字架なのです。
その十字架を瞑想する時をしっかりと過ごしていきましょう。
 「忙しい」、これは現代に生きる私たちの
生活の姿を良く表わす言葉です。
忙しくしていることが元気の証拠になっていることもありますし、
「忙しい」が挨拶代わりになることさえあります。
 ところが、この忙しいことは現代の病気でもあります。
忙しさのあまり身体をこわしてしまうことや、
時間に追われて自分も回りも見失ってしまうことがあります。
確かに神様は怠惰を好むわけではありませんし、
一生懸命何かに打ち込む姿は尊いものです。
 ですが、やはり忙しく走り回っていた弟子たちに対して、
イエス様は休みなさいと言われています。
疲れ切った私たち、
忙しさの中で大切なことを見失ってしまった私たちに平安を与え、
真理を見つめさせてくださる方、
それがイエス・キリストです。
 「疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。
・・・そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」
(マタイ11:28、29)

「立ち直る」

 誰でもあの時こんなことを言わなければ良かった、
あんなことをすべきではなかったと思うことがあるでしょう。
「後悔先に立たず」と言われるとおりです。そのような時、
もう一度やり直すことが出来たら、
何と素晴らしいことでしょうか。
 イエス様の弟子の一人であるペトロは、
十字架と言う最も大切な場面で
イエス様を知らないと言ってしまいました。
このようなことをしてしまったらもう絶望的ですし、
やり直すことなど考えられません。
しかし、聖書はこう教えています。
「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、
罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」
(1ヨハネ1:9)
 たとえ人間的にはもう駄目だと思っても、
イエス・キリストの前に素直に悔い改める時、
新しく生きることが出来ます。三度裏切ったペトロでさえ、
やがて力強く立ち直り、素晴らしい働きをするようになりました。
 このように変わることが出来たのは、
ただただイエス様によって罪赦されたからです。
悔い改めによって新しく立ち直る、
そこにイエス様が開いてくださった道があるのです。

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