誰でも年に一度誕生日が巡ってきますが、
これは造り主なる神さまが
この世界へと私たちを生れさせてくださった記念すべき日です。
この意味を考えますと、
たとえいくつになっても誕生日が巡ってくると言うのは
嬉しいものなのではないでしょうか。
 もう一つ誕生日と呼べるものがあります。
それはイエス・キリストをわたしの救い主と信じ、
受け入れた日です。
必ずしも○月○日に信じましたとは言えないかもしれませんが、
イエス様と出会い、
洗礼を受けた喜びは私たちの生涯を決定付け、
信仰生活を支えるものとなります。
 誕生日は後から親に教えられて
○月○日に生れたのだとわかるわけですが、
イエス様との出会いは私の心が開かれ、
私の中に入ってきていただいたことを自覚する時です。
それだけ喜びも大きく、この感激は一生の宝となります。
 「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声をきいて戸を開ける者があれば、
わたしは中に入ってその者と共に食事をし、
彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」
(ヨハネの黙示録3:20)
 もし、とても大切にしているものがなくなってしまったなら、
悲しくて仕方ありません。
でもそれが見つかったならば、嬉しくて大喜びです。
 私たちを造られた神様にとっても、
失っていたものが見つかると言うのは、大きな喜びです。
では神様が失っていたものとは何でしょうか。
それは私たち一人一人です。
私たちは自覚していなかったのですが、
実は毎日の生活の中で、私たちは神様を悲しませ、
神様を離れてしまいました。
しかし、神様は私たちを捨てることなく、
私たちが神様の下に帰れるように
ちゃんと道を用意してくださいました。
 それは神様の独り子イエス・キリストを信じることです。
イエス様は命をかけて私たちが神様に立ち帰ることを
教えてくださいました。
神様と主に生きることがどんなに素晴らしいかを
示してくださったのです。
 ですから、私たちがイエス様を信じ、
神様の下へ帰りたいと願うならば、
神様は私たちを大歓迎してくださいます。
なぜなら、神様は私たちのことを愛しておられるからです。
この神様に喜ばれ、愛されていく人生こそ、
私たちのために用意された最高の祝福です。
 衣料品の売り出しのチラシをよく見かけますが、
いくら安くて良い品であっても
身体に合っていない服は着にくいものです。
また見た目にも良い印象を与えませんので、
自分に合った服を着るのが一番です。
でも時には、必要に迫られてどうしても着にくい服を
着なければならないこともあるでしょう。
そのような時は何とも落ち着きません。
 私たちがこうでなければならないという服を着るならば、
窮屈で長続きしません。
キリスト教信仰は決して高い理想的な、
こうでなければならない服を
無理やり着せられるものではありません。
そうではなく、自分でも避けたい、
認めたくないような弱い本当の自分を
イエス・キリストに受け入れていただくことです。
 私たちは皆、一人ずつ違います。
また我がままで格好付けたくなりがちです。
そのような私たちの建前の服を脱がせ、
最も自然な本音の服を着せてくださるお方がイエス・キリストです。
私たちが自分を造ってくださった方をほめたたえ、
自分の罪の姿を認め、イエス様にすべてを委ねようとする時、
キリスト教信仰は窮屈な服ではなく、
私たち一人一人を生かす、光り輝く服となるのです。
 現代ではとても明るく、
しかも目に優しい灯りが開発されています。
でも、せっかく素晴らしい物があっても、
部屋の真ん中とか机の上にきちんと置かなければ、
備えられている力を十分に発揮することは出来ません。
 イエス様は「ともし火をともして、それを穴蔵の中や、
升の下に置く者はいない。入って来る人に光が見えるように、
燭台の上に置く。」(ルカ11:33)と言われました。
これは当たり前のことですが、
このよく知られていることから何を教えようとされたのでしょうか。
 それは、私たちがいつも聖書の御言葉に親しんで、
イエス様の教えに従って生きるということです。
この大切なことをいつも覚えることが出来るように
御言葉を家の中心に置き、
絶えずその光に照らされなさいということです。
 明るい照明に照らされるように、
いつも神様の御言葉の光に照らされることは、
何と素晴らしいことでしょうか。
暗闇にさっと光が差し込むように、
心の中にも御言葉が差し込む毎日でありますように。
 「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、
神に向かっているのです。
栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」
(ローマ11:36)
 聖書は生けるまことの神様、
世界と私たちと造られた造り主以外のものを
拝むことを戒めています。
それは造り主以外ものはその作品であり、
拝む対象とは違うからです。
どんなに優れた人も、美しい自然も、立派な彫刻も、
それらは作品としては素晴らしくても、
神様の代わりになることは出来ません。
ですから、私たちに生ける御言葉を与え、罪から救い、
人生の目的を与えることは出来ません。
 造り主なる神様をほめたたえ、
従っていくところに、
私たちを本当に満たす喜びがあるのです。

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