旧約聖書の箴言29:25に
「人を恐れると、わなに陥る、主に信頼する者は安らかである。」
(口語訳聖書)とあります。
まさにこのとおりではないでしょうか。
 私たちはまわりの自分に対する評価や世間のうわさを恐れます。
そして、その結果、人に合わせたり、
みんなの好むことをするように気を遣います。
まわりの人から良い評価を得ることは好ましいことですが、
そのために大事なものを失ってしまうことがあります。
 それが「主に信頼する」、
つまり「神の御言葉に従って生きること」を忘れてしまうことです。
神の声と人の声は必ずしも一致しません。
いやむしろ、随分違うことがかなりあります。
なぜならそこにまわりの声の中で
自分の思いを決めてしまう弱さがあるのです。
 しかし、神様はそのように人の顔色を伺うことはなく、
しかも完全な判断を下されます。
そしてその神の声と私たちの思いのズレ、
それを聖書は罪と呼んでいます。
 神様がはっきりとおっしゃっているにもかかわらず、私たちの、
あるいはまわりの人々の思いと違うからと言って
ムカッとしてしまうとしたら、それこそ、わなにかかってしまいます。
このわなから主に信頼する者へと導くために、
主イエス・キリストが来られました。
人に対する恐れの中で自分を見失いがちなものを、
神に信頼して生きる者へと変えていただく、
それがキリストによってもたらされるものなのです。
 朝起きて、すぐに鏡で自分の顔色や髪型を見る人も
多いのではないでしょうか。
また私たちは自分の目では直接見ることができなくても、
顔や背中などを、鏡を使うことによって見ることができます。
身体の中はどうでしょうか。
これもレントゲンや小さなカメラを入れることによって
見ることができます。
 では心の中はどうしたら見ることができるでしょうか。
それはレントゲンでもカメラでもなく、
聖書の言葉によって見ることができます。
聖書は神様が私たち人間の生き方を示してくださる書物です。
よく読んでいきますと、
私たちの生活は聖書の教えから随分離れていることに気づきます。
それが罪と呼ばれるものです。
罪とは聖書を私たちに与えてくださった神様に背くことです。
ですから聖書は、この罪を私たちに知らせ、
本来の姿を教えてくれます。
 道を示され、目標を与えられるのは素晴らしいことです。
たとえ途中で弱り、くじけそうになっても、
目的がはっきりしていて希望があれば、力が湧きます。
だからこそ、毎日鏡を見るように、
日毎に聖書の御言葉に耳を傾けて、
豊かな糧をいただいていきましょう。
 私たちは誰もが尊い命を与えられています。
命があるからこそ、生き、考え、行動することが出来ます。
ところが、この命を私たちの力で勝手に延ばすことは出来ません。
命を与え、生かし、取り去るのも、
私たちを造られた神様の働きの中にあります。
ですから私たちはたとえどのような状態の中にあっても、
命を与えてくださった神様に感謝し、
この命を大切に使って生きたいものです。
 日本に最初にキリスト教を伝えたのは、
フランシスコ・ザビエルという宣教師です。
ザビエルは「人は、たとえ全世界を手に入れても、
自分の命を失ったら、何の得があろうか。」(マタイ16:26)
という聖書の言葉に心動かされ、
世界伝道のために生涯をささげました。
私たちが生きていくために必要なものはたくさんあります。
食べ物、着る物、住む所、それらを買うためのお金、健康などです。
 でも、たとえそれらのものを十分手に入れたとしても、
それで満足できるわけではありません。
そこには最も大切なものが欠けているからです。
その最も大切なものとは、
ザビエルもその生涯をかけたイエス・キリストの御言葉です。
私たちはイエス様によって生かされていることを確信するところに、
本当の喜びがあるのです。
 よく早起きは三文の得とか、
時は金なりと言われますように、
時間は後になって取り戻すことの出来ないとても貴重なものです。
ですから待ち合わせをして相手を待たせたり、
自分が待たされたりすることが、
お互いの信頼関係をなくす原因となることさえあります。
待つことは忍耐のいる、なかなかむずかしいことです。
出来るなら待たずにスムーズに事が進んで欲しいと思います。
 ところが、聖書の中には
「主を待ち望む」ということが幾度も出てきます。
その一つが「主を待ち望む者は新たなる力を得、
わしのように翼をはって、のぼることができる。」
(イザヤ40:31;口語訳聖書)です。
 聖書は主が来られることを約束しています。
そして来られたこの世は新しくなり、
神様の栄光が限りなく輝き、
死の悩みからも身体の弱さからも解放されます。
ただ、それがいつなのかは神様にしか分りません。
私たちは待ち望むだけです。
でもそれは何もせずにじっとしていることとは違います。
神様を崇め、祈り、
それぞれの場において神様に仕えるようにと励むことです。
 私たちの小さな働きの一つが神様に喜んで受け入れられることが、
主の来られることにつながるのです。
だからこそ、主を待ち望む者は新しい力を受けることが出来るのです。
 聖書の言葉とはどのようなものでしょうか。
新約聖書の中にある多くの手紙を書いたパウロは
次のように言っています。
「このようにわたしが言うのは、
あなたがたのためを思ってのことで、
決してあなたがたを束縛するためではなく、
品位のある生活をさせて、
ひたすら主に仕えさせるためなのです。」(1コリント7:35)
 そのとおり、私たちをがんじがらめにするのが目的なのではなく、
私たちを生かすため、
「品位のある生活」をさせるためだと言うのです。
これは「美しい形でいる」という言葉です。でもどうでしょうか、
クリスチャンの生き方が果たして美しいのでしょうか。
 十字架に付けられたイエス・キリストがののしられ、
あざけられたように、
神に仕える姿は美しさの正反対の評価があります。
しかし、その仕える道は死で終わったのではなく、
復活され、その栄光のお姿によって
本当の美しさがそこにあることが示されました。
 私たちが品位のある生活をすることが出来るのは、
立派だとか、道徳的な清さを持っているからではありません。
イエス様の十字架と復活の祝福をいただいているからです。
この方に支えられていますので、
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。
わたしは既に世に勝っている。」
(ヨハネ16:33)の励ましをいただいて、
主に仕えていくことが出来るのです。

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