暗い道を一人で歩くのは不安なものです。
全く灯りがなければ
道がどのような状態になっているかもわかりませんので、
一歩も前に進むことが出来ません。
 私たちの毎日の歩みも同じようなものではないでしょうか。
もし進んでいく道を示してくれる光がなければ、
間違った方向に行ってしまいます。
そして間違っていることさえ気がつかないのです。
 この毎日の歩みに光を与え、
私の歩みを照らす灯となるのが、聖書の言葉です。
この聖書は、一見、他の書物と変わりないように
見えるかも知れません。
しかし、大きな違いがあるのです。
普通の本は人が自分の考えで書きます。
聖書も書いたのは人間ですが、
神様のお考えが人の心を動かし、
神様の思いを記したものです。
それで聖書は「神の御言葉」とも呼ばれています。
 人の思いではその神の御言葉とは違う道を歩んでしまいます。
けれども神様はそれを良しとしないで、
わたしのもとに帰りなさいと招いておられます。
そのために御自分のひとり子、
イエス・キリストをこの世へと送ってくださり、
まことの道を示してくださいました。
その方による以外にその道はありません。
 「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」
(詩編119:105)
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3:16)
 これは聖書の中で最も有名で重要な言葉と言えるものです。
それは、ここに神様の深いお考え、大きな愛があるからです。
 神様の独り子なるイエス・キリストは、
神でありつつ人となられたお方です。
別に半分神様、半分人間というわけではなく、
100%神であり、100%人間となられたのです。
ですから、人間と言うことではすべての点で私たちと同じです。
 ただ一つ、大きな違いがありました。
それは一度も罪を犯されなかったと言うことです。
嘘をつくことも悪い思いも行動もありませんでした。
それにも関わらず、十字架という極めつけの刑罰を
受けなければならなかったのは何故でしょうか。
 それは人々の罪を背負われたからです。
そこでまるで自分が罪を犯したかのような刑罰を受けられました。
それは私たちを罪の中から救い、
私たちに祝福と喜びを与えるためです。
そして私たちの犯す罪を帳消しにして、
神様の御前で正しいと言われるようにして下さいました。
このことを信じることによって、喜びと祝福へと導かれるのです。
 「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。
そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」
(1ヨハネ3:16)
 この御言葉は聖書の中で最も大切なものの一つです。
主イエス・キリストは今から二千年ほど前に
十字架と言う恐ろしい刑にあって亡くなりました。
でもご自身は十字架にかけられるような悪いことは何もせず、
むしろ全く正しい生涯を送られました。
それなのに死なれたのは私たちのためだったのです。
 これは驚くべきことではないでしょうか。
私たちのために命を捨ててくださった方がおられる、
それがイエス・キリストです。
なぜこのようなことが起こったのでしょうか。
それは私たちが日々犯す罪を赦し、
死んでも滅びることのない永遠の命をくださるためです。
 これが本当の愛です。
愛はイエス・キリストが私たちの友として命を捨て、
永遠の喜びを与えてくださったことなのです。
 誰かがこの私のために食卓を整えて招いてくださると言うのは、
とても嬉しいことです。
それだけ自分のことを気に掛け、
多くの準備をして迎えてくださるのですから、
招待された側は何とも大きな喜びに包まれます。
 実は私たちのことを心から招き、
食事を整えて下さっている方がおられます。
その方こそ私たちの救い主、イエス・キリストです。
食事を用意し、
食卓を整えるためには準備する側に犠牲があります。
イエス様は何とかして私たちにそのテーブルについて欲しいと願い、
自らの命を捨てると言う、
これ以上ない犠牲を払われたのです。
なぜこのようなことをされたのでしょうか。
 それはイエス様が私たちのことを
愛しておられるからに他なりません。
誰でも愛する者が滅んでいくことは辛いことです。
これはイエス様にとっても同じです。
ですからイエス様はご自身の命を捨てて、
愛する私たちが罪から救われ、
永遠の命へと入れられる道を用意してくださったのです。
こうしてイエス様は私たちが同じテーブルに着くようにと
招いてくださっているのです。

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