先週はクリスマス真っ盛りと言う感じでしたが、
今やすっかりとお正月飾りとなりました。
まもなく新しい一年を迎えようとしていますが、
来年、2008年どのような一年となるのでしょうか。
 私たちは先のことを見通すことが難しいのですが、
次のことは確かです。
それは旧約聖書の詩編37:23で言われていることです。
「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる。」
 たとえ私たちには確かでなくても、
主なる神様はちゃんと歩むべき道を備えてくださり、
しかもそれが「御旨にかなう」ものだと言うのです。
なぜなら、それは神のひとり子であるイエス・キリストが
「わたしは道であり、真理であり、命である。」
(ヨハネ14:6)として私たちを導き、共に歩んでくださるからです。
つまり、私たちがイエス・キリストと出会うことによって、
その一歩一歩が示されていくということです。
 実はこの言葉の前にイエス・キリストは
「心を騒がせるな。」と言われています。
主は先が見えずに騒ぎたくなってしまう私たちのことを
誰よりもよくご存知です。
だからこそ、そのような私達のために自らが道となられ、
その一歩一歩と共に歩んでくださると約束してくださっているのです。
 新しい年の一歩一歩がそのようなものでありますように。
 今年もクリスマスを迎えることとなりました。
誰でも一年に一度、誕生日を迎えます。
多くの方々に誕生日が覚えられ、
祝われるとしたら何と幸いなことでしょうか。
クリスマスは今や世界中で知られていますが、
この時こそイエス・キリストの誕生を祝う時です。
 でも年末の慌しさの中で
それどころではないということはないでしょうか。
ただ、クリスマスを最初に知らされた羊飼いたちは、
忙しさの只中におりました。
その時に彼らは、
今はそれどころではないと相手にしなかったのでしょうか。
もしそうでしたら、
クリスマスのお話は先に進まなかったかもしれません。
彼らはその忙しさの中で
「主が知らせて下さったその出来事を見ようではないか。」
(ルカ2:15)と祝福をいただこうと急ぎました。
知らせを聞いてすぐに従ったからこそ、
救い主誕生の喜びにあずかれたのです。
 このように、クリスマスは慌しい只中にやってきました。
その時、かつての羊飼いたちのようにその知らせを漏らさず聞く時に、
たとえどこにいてもクリスマスは、
一人一人がイエス・キリストと出会う時となります。
今年、今いるところにキリストはおられます。
そしてそこで迎えるクリスマスこそ、
それぞれに与えられた最高のクリスマスなのです。
 よく「神を見せないさい。そうしたら信じます。」ということを聞きます。
目に見えない神などあり得ず、
そのようなものは空想の世界だということでしょうか。
でも聖書には「いまだかつて、神を見た者はいない。」
(ヨハネ1:18)とあります。
まことにその通りでして、神を人の目で見ることは、
これまで誰も出来ませんでした。これからも出来ないでしょう。
すると、神様は神話や思想の中で考えられるだけで、
今の私たちには何のかかわりもないのでしょうか。
いいえ、決してそのようなことはありません。
 先ほどの言葉の続きには、「父のふところにいる独り子である神、
この方が神を示されたのである。」とあります。
その通り、独り子なる神が、その見えない方をあらわしています。
ですから、私たちはこの独り子なる神によって
まことの神様を正しく見ることが出来ます。
 その独り子なる神こそイエス・キリストです。
イエス様は私たちの目に見えるように人の形を取り
人類の歴史の中に誕生してこられました。
ですからイエス様より二千年ぐらい後にいる私たちは、
今は直接お会いすることが出来ていませんが、
イエス様を見た人々が書いた聖書によって見ることが出来るのです。
このクリスマスは、まさにその独り子があらわれた、その時なのです。
 イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスの時期を
どのようにお過ごしになられておられるでしょうか。
誕生日を迎えることは、
また一つこの世で年齢を重ねることになり、
それだけ、一人一人に与えられた命の重さを感じます。
この誕生を祝うのであれば、
それは回りの人々がプレゼントをし、
主役がおめでとうと祝われるはずです。
ところが、クリスマスの場合はどうでしょうか。
主役であるはずのイエス・キリストは祝われるどころか、
人々にののしられ続け、
遂には十字架に付けられて殺されることになってしまいました。
 しかし、このことは誕生の前から分っていたことでした。
新約聖書の一番最初にあるマタイによる福音書の1章に
その誕生の様子が描かれています。
そこにありますように、
イエスという名前は
あらかじめそのように名付けなさいと教えられたもので、
その意味は「自分の民を罪から救う」と言われています。
十字架は何よりも、この罪から救うためのものでした。
一年一年、いや一日一日と犯してしまう様々な罪、
それを私たちは負うことが出来ません。
だからこそ、キリストが十字架で負ってくださり、
私たちを生かしてくださいました。
 私たちの命はみな、生かされている命です。
私を生かすためにささげられたものがある、
ここに気づくことによって、
私たちはますます毎日生かされていることに
感謝して行くことが出来るでしょう。
 今年も師走に入り、
この一年の中ではやった様々な言葉が数え上げられています。
言葉は時代をあらわすと言われますが、
多くの方々が近頃、言葉に力がなくなった、
言葉が軽くなったと思っているようです。
 よくキリスト教は言葉の宗教であると言われます。
それは聖書が神の言葉と言われ、これが土台になるからでしょう。
その神の言葉のヨハネによる福音書の出だしでは
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」
と言われています。
 実は、この言といわれている方こそ、
まもなく迎えようとしているクリスマスにお生まれになられた
イエス・キリストです。
ところが、その先には
「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」
と言われています。もしあなたがせっかく訪ねていったのに、
門前払いにあってしまったら悲しいことです。
相手を大切に思っていればいるほど、残念で仕方ありません。
 イエス・キリストが来られたのは、
その力ある神の言葉であなたを生かすためです。
あなたに生きる目的を示し、
歩み道を照らし、
困難を支え、
絶望を希望に変える、
それが神の言葉の力です。
この神の言が記されている聖書は、
あなたがかけがえのない存在だからこそ書かれました。
ぜひ、たっぷりとその言の力をいただいて、
このひと月を過ごしていきましょう。

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