同じ種類の球根を同じ日に同じ店で買っても、
やがて一つはきれいな花を咲かせ、
もう一つはしぼんでしまうということがあります。
それはたとえ外見上は同じようであっても、
花の咲いたほうはしっかりと土に根を張っていたのに対して、
枯れたものはあまり根がないところに原因があるようです。
 イエス・キリストはある時、
御言葉を種にたとえて話されました。
良い地に蒔かれた種は豊かな実を結びます。
しかし、土があまりなく、
石がゴロゴロしたところに落ちた種は芽を出すことは出すのですが、
根を下ろすことはなく、枯れてしまうのです。
これは私たちのイエス様を信じる生活とよく似ています。
 イエス様の御言葉である聖書を読み、
礼拝をささげることによって
深く根を下ろして命の御言葉を吸い上げていく、
これが本当に根のある生活です。
ローマ11:18には
「あなたが根を支えているのではなく、
根があなたを支えているのです。」とあります。
御言葉に根ざす根はイエス様によってのみ伸ばされ、
栄養をいただくことができますので、
ここにしっかりと根を下ろして上へ上へと伸びてまいりましょう。
 今では私たちの普段使っている言葉で聖書を読むのが
当たり前になっていますが、
こうなるまでには先人たちの多くの労苦がありました。
 そもそも神様は、
旧約聖書はヘブライ語で、
新約聖書はギリシャ語で書かせ、
それが聖書となりました。
それが色々な国の言葉に翻訳され、
今では日本語でも立派な聖書が作られています。
ただ、もしも聖書の真の著者である神様が
何でも出来るお方であるならば、
ヘブライ語とギリシャ語だけでなく世界中の言葉で
一気に語ってくれたら良かったのにと思うこともあるかもしれません。
 けれども、そうはなさいませんでした。
初めに御自分のお考えを語られた後、
神様はそれを信じた者にそれぞれの言葉に聖書を翻訳させ、
その国の人々に伝えさせたのです。
その結果、私たちは普段使う言葉で神の言葉を受け、
救いの恵みにあずかることが出来るようになったのです。
 神様は主イエス・キリストの救いを
多くの人々の労苦を用いて私たちに届けてくださっています。
魔法のような形でパッと与えられたのではなく、
先に信じた方々を通して伝えられたのは、
それが私たちに伝えるのに良いと判断されたからでしょう。
人から人へと、
人の労力を用いて届けられた神の救いの恵みを感謝して
受けとめてまいりましょう。
 一年で最も寒い時期を迎えようとしていますが、
私たちはよく気候のことを話題にします。
いつまでも暑いですね、
過ごしやすいですね、
今年は寒さが厳しいですねなどと一年中話題には不自由しません。
私たちは季節の移り変わりが豊かな中で生きていますので、
こうしたことが言えるのですが、
とかく寒い時には早く暖かくなってほしい、
暑い時には早く涼しくならないかなあと考えがちです。
 こうして欲しいという思いは季節のことだけでなく、
私たちの毎日の生活の中にあるのではないでしょうか。
あれが欲しい、
このようになりたいなど、
数え上げたらきりがありません。
確かに私たちにはして欲しいことがたくさんあるのですが、
もっとも大切なことをしてくださったのがイエス・キリストです。
 イエス様は私たちの醜い心、
高ぶりなどから起きる罪を赦し、
私たちが死んでも生きる永遠の命を与えると約束してくださいました。
それはお金や実績を積んで得るものではなく、
ただただ信じていただくものです。
それだけ信じることは素晴らしいことであり、
信仰の力がここにあるのです。

「道しるべ」

 1年の初めに歌うのにふさわしい讃美歌の歌詞で
次のようなものがあります。
「われらのゆくさき、さだかに見えねど、
みちびくひかりに、身を委ねまつらん。」(411番)
 そのとおり、私たちにはこれから進んでいく先に
どのようなことがあるかわかりません。
いったい目指しているところはどこなのでしょうか。
でも恐れることはありません。
 「みちびくひかりに、身を委ねまつらん。」とあるように、
私たちの歩みに光を当てて導いてくださる方がおられます。
しかも、私たちの後ろから尻を叩くような仕方ではなく、
前に立ってちゃんと進む道を教えてくださるのです。
この方こそ、道であると言われたイエス・キリストです。
イエス様は私たちがくじけそうになっても、
倒れそうになっても、
私たちをだらしないと捨てられる方ではありません。
私たちを支え、
励まし、
重荷を負ってくださいます。
 このイエス様にすべてを委ね、
共に歩む生活、
これこそ、「みちびくひかり」に照らされていくものです。
新しい年も、この光の中に歩む年とさせていただきましょう。

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