「地の塩」

 私たちの毎日の食卓で、
塩は欠かすことの出来ない調味料ではないでしょうか。
塩は食べ物に味付けをして私たちの食欲を促してくれます。
こうしてその食物自体では得ることの出来ない、
何とも素晴らしい味をつけることになります。
 私たちにとってキリストの教えが必要なのは、
塩が食べ物に必要なことにたとえられます。
人生の中には楽しいこと、
喜ばしいことと共に、
辛いこと、
悲しいことなどもあります。
喜びの時に心から喜び、
悲しみの中にあっても挫けず、
励まされるためには、
心の底から個々人をしっかりと支えてくれるものが必要です。
それが聖書の言葉です。
 聖書は私たちの人生に味や香りを与え、
苦しみの中にあっても輝きを持たせるものです。
なぜそのような力があるのかといえば、
聖書は人間をはじめとして
この世のすべてのものを造られた神の御言葉だからです。
 私たちのことをすべてご存知であるお方が
お語りになっているのですから、
この言葉をしっかりと蓄えて、
毎日の原動力といたしましょう。
 春の訪れと共に芽が吹き出し、
花が咲き始めたように、
この時期は命の躍動を普段以上に感じるのではないでしょうか。
 ただ、それらの命の営みは、
春に咲き、
夏に成長し、
秋に実り、
冬に枯れるということで終わっていきます。
そして、一見、人間の営みも同じで、
この地上での生涯が閉じると共になくなってしまうような感じです。
 でも、決してそうではありません。
聖書はイエス・キリストの言葉として、
「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
(ヨハネ11:25)と記しています。
なぜこのように言えるのかといえば、
イエス・キリストだけが死んでも生きて、
復活されたお方として現れてくださったからです。
確かに私たちは、誰もがいずれ死を迎えなければいけません。
けれども、それが永遠の終着点となるのではなく、
キリストが自ら復活された命を私たちに与えてくださり、
「死んでも生きる」と約束してくださっています。
 さらに、キリストは
「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」
と続けています。
イースターを迎えた今、
そのキリストの期待に応えて、
生きていてキリストを信じていきましょう。

「神の家族」

 イエス様は小さい頃から母マリアを助け、
弟妹たちの面倒をよく見てきました。
でも、イエス様が大切にされたのは母や弟妹たちだけでなく、
従ってくるすべての人を同じ家族として受入れてくださったのです。
なぜなら、
神の御心を行う者は
誰でもイエス様の家族になることが出来るからです。
 しかし、神の御心を行うといっても、これは大変なことです。
私たちは神様を忘れ、
不満を言い、
罪を犯してしまう弱い者です。
とても私は神の御心を行っているなどと
胸を張って言えるものではありません。
 そうしますと、私たちは神の家族ではないのでしょうか。
御心を行えない、
受入れてもらえない者なのでしょうか。
決してそのようなことはありません。
弱い自分をはっきりと自覚し、
このような者をも救ってくださいとひたすら求める時、
イエス様は私たちを
間違いなく家族の一員として喜んで迎えてくださいます。
 「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、
魂を生き返らせてくださる。」(詩編23:2、3)
 神様が私を青草の原に連れて行ってくださり、休ませ、
憩いの水を与えてくださるとは何と美しい表現なのでしょうか。
これは人間を羊にたとえて神様をほめたたえたものです。
 羊が本当に安らぎ、青草の原に休むためには、
いくつかの条件が必要です。
それは回りへの恐れがないこと、お腹が減っていないことなどです。
そして羊たちがこのような条件を満たすかどうかは、
羊飼いたちによって決まるというのです。
 私たちはどうでしょうか。やはり恐れ、争い、
空腹があっては充分に安らぐことは出来ないでしょう。
私たちもこれらが取り除かれ、満たされる必要があります。
でも羊はともかく、
私たちの場合は自分の力でそれを満たそうとしてはいないでしょうか。
別に養ってくれている存在など頭にありません。
 聖書はこのような私たちを満たし、
安らぎを与えてくださるお方が
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と語られた
イエス・キリストであることを証しするものです。
 イエス・キリストとはどのようなお方と尋ねられましたら、
どうお答えになるでしょうか。
イエス様についてはいろいろな評価があります。
世界の四大聖人、
愛の教えを説いた人、
善人だったのに惨めな最後を迎えた不運な人などです。
 イエス様がこの世で活動されていた頃も様々な評判がありましたが、
弟子達は「あなたこそキリストです」と答えました。
イエス様は単なる偉い人、賢い人ではありません。
まことの神であり人である、私たちの救い主です。
このイエス様が私たちの罪のために十字架にかかってくださり、
救いの喜びを与えてくださったのです。
 あとは私たちが
「あなたこそキリストです」と信じることが求められています。
これはイエス様が十字架にかかってくださったのは
私のためであると信じることです。
回りの評価に惑わされないで、
神の御言葉である聖書が語っているように、
私の救い主としてイエス・キリストを受け入れ、
イエス様と共に歩んでまいりましょう。

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