「律法」

この世の中にはたくさんの規則、決まりがあります。
国の憲法や都道府県の条例、
あるいは職場の決まり事や地域の慣習など、
知らないと大変なことになったり、
迷惑をかけたりすることになってしまいます。
聖書の中にも色々な決まりが出てきます。
もしこれを全部守らなければ呪われてしまうと言うことでしたら、
すべての人がそうなってしまうことでしょう。
でも、聖書の教えは福音、
良い知らせといわれています。
いったいどこが良い知らせなのでしょうか。
新約聖書のローマの信徒への手紙3:28では
次のように言われています。
「人が義とされるのは、
律法の行いによるのではなく、
信仰によると考えるからです。」
つまり、聖書の規則、律法は、
これを全部守れたから天国に行けるといった条件ではありません。
むしろ、出来ない自分を素直に認め、
これほど守れない者でも
愛されていることを知らされるためにあります。
なぜなら、出来ない私のために、
イエス・キリストが代わりにすべてしてくださって、
もう心配いらいなと支えてくださっています。
このことが事実であり、
この自分もその中に入れられていることを信じることが鍵です。
そして、信じたものがその信仰の道を進んでいく道しるべとして、
律法は私たちを励まし、
強めてくれているのです。

「方向転換」

先日、自転車をこいで、
とある場所に向かおうとしていた時のことです。
慣れているはずの道だったのですが、
考え事をしていたからなのか、
全く逆の方向に進んでいました。
道路標識に気づき、慌てて方向転換しましたので、
無事に目的地にたどり着くことができました。
これは小さなことかも知れませんが、
私たちの人生においては、決定的な方向転換が求められます。
そのことをイエス・キリストは
「悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と言われています。
この悔い改めこそ、
まさに180度方向を転換することです。
では、いったいどう転換するのでしょうか。
私たちはとかく自分の力で道を開いてきたと思いがちです。
確かに試験に合格し、
仕事を達成し、
駆け抜けてきたのは、
他でもないこの私かもしれません。
しかし、果たして本当にそうでしょうか。
逆に上手くいかなかったり、しくじったりすると、
回りのせいや時代の状況に逃げてしまいがちです。
いずれにしても、これらは自分中心の思いです。
でもそうではなく、
このように生かされているところに、
世界と私を造られた神の大きな支えがあることに気づき、
感謝して生きていく、
これこそ方向転換して得ることの出来るものです。

「賜物」

 聖書の中に何度となく「賜物」と言う言葉が出てきます。
普段あまり聞きなれないことですが、
聖書が書かれたギリシャ語では「カリスマ」と言います。
最近ではカリスマ美容師、
カリスマ教師などと呼ばれる人がいますので、
お聞きになられたことがあるかもしれません。
 これはその分野の中で特別な技能を持っていて、
他の者とは数段違うレベルにある人のことを指すようですが、
そもそもの意味はそうではありません。
この賜物・カリスマにはカリスという似た言葉があり、
これは「恵み」と言われているものです。
 恵みとは上から一方的に与えられるもの、
つまり、神が私たちを愛して、
特別にくださったものです。
ですから、賜物とは自分の力で獲得するのではなく、
与えられるものです。
こちら側には何の誇りもないのに、
いただいた、
まさに賜るものです。
 そこで新約聖書のローマの信徒への手紙12:6では
「わたしたちは、与えられた恵みによって、
それぞれ異なった賜物を持っています」と言われています。
これが聖書の約束です。
ですから、私には何にもないなどとため息をつく必要はありません。
水は高いところから低いところへと流れるように、
私たちが身を低くし、
へりくだるところに、
必ずあなたならではの賜物を見出すことが出来ることでしょう。
 春になり、たくさんの花が私たちの目を楽しませてくれています。
草花の美しさを通しても、
私たちは神様の美しい創造の働きを知ることが出来ます。
春にきれいな花を咲かせるために、
秋から冬にかけて剪定をします。
その時、鋏みや鋸が力を発揮し、
みるみるうちに木は整えられていきます。
でも勿論、鋏や鋸に力があるのではありません。
それらは道具であって、
使う人が良いからこそ力を発揮するのです。
 神様は私たちを用い、
この世界の中で働かれます。
わたしたちがたとえ小さなことでも
何らかの働きが出来るとするならば、
それは神様が私たちを用いてくださるからです。
ですからもし私たちが何かをすることが出来たら、
その喜びを神様に感謝しましょう。
それがどんなに小さなことであっても、
神様はそのことをするために
他でもないこの私を選んでくださったのです。
 この喜びと光栄を毎日の生活の中で少しずつでも
味わっていくことの出来る私たちでありたいと願っています。

 | BLOG TOP |