大相撲の熱戦が繰り広げられてきましたが、
ある時解説者が次のように話しているのがとても印象的でした。
「一番強い人が一番基本に忠実だから強いはずだ。」
それはしこ、てっぽう、ぶつかり稽古など、
お相撲さんにとって
最も基本となることに忠実に励んでいるということだったのです。
基本は面白いものではないかもしれません。
むしろ煙たがれ、
派手なものを求めたくなるものです。
けれども、
表にあらわれるものの背後には基本の積み重ねがあり、
いかにこれに打ち込むかが重要になります。
 ところで、この基本は「基になる本」という字を使います。
「本に基礎を置く」と言い換えてもよいでしょう。
そしてこれこそキリスト教の生き方そのものです。
「ザ・ブック」本の中の本といえば、それは聖書です。
それならば、と聖書を読んでみますと、
漫画を読むように面白くありません。
絵も写真もなく、
聞いたことのない人名や地名がカタカナで次々と出てきます。
しかし、そこで飽きないでじっくりと読んでいきますと、
やがて一つの出会いが起こります。
それは聖書の主人公、
キリストとの出会いです。
基本に忠実に、
そこに私たちの命の源なる方との出会いがあり、
私たちの魂が潤されるのです。
 前回の日曜日は、ペンテコステという日曜日でした。
この日は聖霊降臨日とも呼ばれ、
聖霊が降られたことを記念する日です。
 イエス・キリストは十字架にかけられ、
三日目に復活されました。
その後、弟子たちや多くの人々の前に現れて、
やがて天に昇られました。
でもその前に、私が去っていっても心配しなくてよい、
いつまでも私はあなたがたと一緒であると約束してくださいました。
 でも果たして、姿が見えなくても
いつまでも共におられるなどということができるのでしょうか。
この不可能を可能にしたのが、
聖霊が降られたということです。
ただ単にキリストの力が下ってきたとか、
キリストのことを教えてくれる知恵を授かったというのでも、
私たちがキリストを知るのに大きな助けになるかもしれません。
けれども、
それでは私がいつも共にいると言われた約束は嘘になってしまいます。
 聖霊が降られるということは、
私たちの目にはイエスという人間の姿でキリストはおられなくても、
聖霊という個々人に宿るということで共にいてくださるのです。
この聖霊なる神が共にいてくださるからこそ、
私たちの歩みは孤独ではなくなり、
主イエス・キリストがまことの慰め主、
助け主として歩んでくださるのです。
 教会の目印といえば十字架です。
地図でも教会の場所を示すのに十字架が遣われているほどに、
十字架と教会は切っても切り離さないものです。
ところが、この十字架は、
元々人間の考え出した最も野蛮な死刑の方法だったのです。
 それなのに何故、
教会は誇りをもって十字架を高く掲げているのでしょうか。
それは神のひとり子イエス・キリストがこの十字架にかかって死に、
それによって私たちの罪を赦し、
救いの喜びを与えてくださったからです。
 イエス様は何も最も野蛮な死刑に値するようなことを
されたわけではありませんでした。
いや、むしろ一つも悪いことをせずに
この世の生涯を全うされたのです。
その十字架は御自分の過ちではなく、
私たちの身代わりとなってかかったもので、
本当なら数々の罪を犯している私たちが十字架にかかるべきです。
でもそうなると、
私たちにはもう希望がありません。
 そこで神様は、
ひとり子イエス・キリストが
私たちに代わって刑罰を受けることをよしとしてくださり、
この方を信じるようにと
私たち一人一人を招いておられるのです。
春、夏、秋、冬と日本は季節の変化の豊かさを感じて
一年を過ごすことが出来ます。
暑い時には早く涼しくならないかなと思いますし、
寒い冬には春を待ち遠しく感じます。
そうかと思えば、暖かい冬ですと、
やっぱり冬は寒くなければと言ってみるなど、
なかなか勝手なことを思いがちです。
でもそれは、私たちの力ではどうすることもできないからこその
つぶやきではないでしょうか。
台風や地震などある程度の予報や予測は出来、
備えることは可能になったとしても、
それを止めたり、なくしたりすることは出来ません。
そのような時、
何でも出来るとおごっている人間の無力さを感じます。
ある時、イエス・キリストの弟子たちは、
普段慣れている湖に出た時、激しい嵐に遭い、
必死に「主よ、助けてください。」と叫びました。
その時、キリストは
「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」
(マタイ8:26)と叱られました。
怖い時、叫び、助けを求めることはいけないことなのでしょうか。
そうではありません。
そうではなく、主に信頼して自分を見失わないこと、
それが大切です。
怖い時こそ、
実はその傍らにキリストがいてくださり、
大丈夫と支えておられることを大きな自然の営みの中で発見し、
すべてのものを収めておられる方に従う信仰をいただいていきましょう。

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