「儲け」

イエス・キリストの救いを信じている者を、
「信者」と言います。
面白いことですが、
この信者という漢字二文字を横に並べますと、
「儲」(もうけ)となります。
面白いことですが、
いったい何を儲けるのが信者なのでしょうか。
それこそ、新約聖書・ヤコブの手紙1:21で
「あなたがたの魂を救うことができます。」
と言われている御言葉です。
聖書はこの御言葉を受け入れなさいと語ります。
この受け入れるというのは、
差し出されたものを自分の手で受取るという意味を持つ言葉です。
つまり、もう既に差し出されているのですから、
それを他でもないあなたの手でいただけるものです。
あなたが作り出すのでも、
探り当てるのでもなく、
イエス・キリストによってすっかり用意されているものです。
あとはあなたがありがとうございます、
いただきますと自分の手で受取ればよい、
何と素晴らしい儲けなのでしょうか!
このイエス・キリストは、ヨハネの黙示録3:20で、
「わたしは戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
わたしは中に入ってその者と共に食事をし、
彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」
と言ってくださっています。
こうして主は食事を共にすると言う親しい絆を結びたいと
望まれています。
聖書は生ける神の言葉と言われますが、
生きているということは、
そこに命があるということです。
命あるものだからこそ、
私たちの心の思いや考えを見分けることができるのです。
そもそも神は言葉によって世界を創造されました。
また言葉が人となって、
イエス・キリストとしてこられたのです。
このイエス・キリストが
私たちの罪を赦すために十字架にかかってくださったのです。
このイエス様の十字架が行われた過越しの祭りという時には
何と26万6千5百頭の羊が殺されていたと言われます。
これが罪の赦しのためになされたことでして、
自分の罪を自覚したら、
年に一度のこの過越しの祭りにおいて、
身代わりとして羊の血を流すことによって、
人の罪は赦されるとなりました。
本来なら、羊ではなく、
罪を犯した本人が自らを差し出さないといけません。
でも差し出してしまったらそれでもうおしまいです。
だからこそ、あなたではなく、
あなたの身代わりにこの方、
イエス・キリストが犠牲となられた、
それが十字架です。
だからこそ、この身代わりの、
そして赦しのしるしである十字架を教会は高々と、
堂々と掲げ続けているのです。
ぜひ、十字架を見上げるたびに
罪を赦すために流されたイエス様の犠牲の血を思い、
感謝をささげてまいりましょう。
聖書の中には、
その一言で聖書全体の教えをまとめたようなものがあります。
たとえば、ヨハネによる福音書3:16
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、
永遠の命を得るためである。」
というのは、最も有名なものかもしれません。
ここで紹介したいのは、使徒言行録13:38、39です。
「この方による罪の赦しが告げ知らされ、
また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、
信じる者は皆、この方によって義とされるのです。」
モーセの律法ではだめですなどと言ってしまったら、
大変なことになってしまいます。
実際このことを語ったパウロは激しい迫害にあったように、
まさにこれは命がけのメッセージです。
そこまでしても語らなければならなかったのは、
私たちは、規則のように記されている律法を守ることによっては
救われないからです。
だからこそ、この方と言われるイエス・キリストを信じることが
求められているのです。
それはこの方が私の代わりに律法をまっとうしてくださったので、
できない私の罪が赦された、
このことを信じることが求められています。
この方と出会い、
この方の身代わりによって罪赦されて生かされている、
これこそ聖書が語るメッセージです。
 聖書のカバーに、次のように書かれているものがあります。
「癒されたいとき、元気になりたいとき、
勇気が欲しいとき、いつもあなたと。」、
「いつもあなたと」、
このために聖書は書かれ、
あなたのところに届けられます。
 旧約聖書にある詩編の最初の第1編は、
「いかに幸いなことか」と歌い始めます。
そしてその幸いは
「主の教えを愛し、
その教えを昼も夜も口ずさむ人」
にあるといいます。
口ずさむ、
口に出して言うこと、
これが大切なことのようです。
 同じく、新約聖書のローマの信徒への手紙10:10では
「実に、人は心で信じて義とされ、
口で公に言い表して救われるのです。」
とあります。
なぜなら、その前で言われていますように、
「御言葉はあなたの近くにあり、
あなたの口、
あなたの心にある。」
ものだからです。
 まさに「いつもあなたと」あるものだからこそ、
口ずさむことができます。
なぜなら、
その御言葉は
まことの神は人となられたイエス・キリストとして
来てくださったからです。
残念ながら、
私たちは疲れているとき、
弱くなっているときにそのことを忘れがちになってしまうものです。
だからこそ、
変わることのない聖書を手元において、
「いつもあなたと」
共にいてくださるイエス・キリストの御言葉を今日も、
明日もいただいてまいりましょう。
 一年の中でも最も暑いこの時期ですが、
その中でもしっかりとイエス様についていきたいと思います。
実はイエス様は御自分の弟子となる男たちを招いた時、
「わたしについて来なさい。」(マルコ1:17)と言われました。
 その時、イエス様はどのようなことを期待されたのでしょうか。
弟子たちがお任せください、
これからは、先生はゆっくりしていただいて、
あとは私たちが何でもしますからご安心を、
そういうようなことを願われたのでしょうか。
 そうではありませんでした。
この「わたしについて来なさい」は、
わたしの後ろに隠れなさいと言う意味を持つものです。
つまり、イエス様に従うと言うことは、
イエスさまを忘れてしまうほど忙しくすることではなく、
イエス様をしっかりと見つめて、
その後ろについていくことです。
 イエス様が私の前に立ってくださっているからこそ、
困難に立ち向かうことが出来ます。
イエス様の後ろにしっかりと続いていくからこそ、
確かな毎日を送ることが出来るのです。
こうして迷いがちな弱い私たちを、
イエス様はいつも「私について来なさい。」と招き続けておられます。
今日もそのイエス様の御言葉を心に留めて、
後ろからしっかりと従っていきましょう。

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