「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(詩編23:1)
 聖書では人間を羊に、
神様を羊飼いにたとえることがよくあります。
日本に住んでいる者には羊も羊飼いも馴染みが薄いものですが、
聖書の中では繰り返し述べられている大切な関係です。
 羊飼いは羊たちを散歩させる時は、
先頭に立って歩き、
まず自分が通ったところを羊たちにも歩かせます。
決して後ろから追い立てるのではなく、
私についてきなさいと導きます。
こうして羊飼いは、
羊たちを安全な場所へ連れて行って、
必要な食物や休息を与えます。
羊たちは自分の力で安全なところを見つけることが出来ませんので、
もしも羊を養う羊飼いがいなかったら、
その羊はとても可哀想です。
 神の子イエス・キリストは、
羊飼いとして信じる者を養ってくださるお方です。
私たち一人一人のことを心に留め、
導いてくださいます。
そのためにイエス様は十字架にかかり、
私たちの罪を赦してくださいました。
そして私についてきなさいと声をかけ、
確かなところへと連れて行ってくださいます。

「生命の水」

 太陽の光を浴び、地面から水分や養分を取って、
花は咲き、葉は繁っていきます。
ところが、
もし誰かがいたずらをして茎を途中で切ってしまったら、
花はどんどん枯れてしまいます。
それでも水分を欲しがりますので、
その切った花を黒インクの瓶にさしますと、
そのインクを吸って花は黒くなり、
やがて死んでしまいます。
 実は人間も同じです。
人は自分を造ってくださったまことの神様に背き、
神様から離れました。
ですから、
生きるために必要な養分を取ることができなくなってしまったのです。
でも何かに頼りたい、
拝みたいという心がありますので、
自分の手で像を造り、
拝むことになったのです。
本当に必要な水ではなく、
黒い、飲めば飲むほど滅んでいくインクを飲んでいるのと同じです。
 しかし、神様は私たちを再び生命の水を吸う者へと
変えてくださるチャンスを示されました。
それは神のひとり子なる主イエス・キリストを信じることです。
このイエス様こそが、
私たちにまことの生きるための水を与え続けてくださるのです。
 緑の美しい季節ですが、
このような時期に語られたのでしょうか。
イエス様は「空の鳥をよく見なさい。」、
「野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。」
と弟子たちに語りかけられました。
その時おっしゃりたかったのは、
「思い悩むな。」ということだったのです。
 「思い悩むな」と言われますと、
ますます思い悩んでしまうのが私たちです。
なぜなら、
私たちの内には本当の意味でしっかりとしたものがありませんので、
何を食べようか、何を着ようかということで不安になります。
そして結論付けられることは、
たいてい否定的な後ろ向きなものです。
それが私たちの内に溜まっている思いです。
 そのような私たちに、
イエス様は「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33)
とおっしゃいました。
私たちの持っている力に頼ろうとすれば、
思い悩むものしか出てきませんが、
イエス様に頼り、
イエス様の力によるところに、
思い悩みを倒せる秘訣があるのです。
 ですからイエス様は
「あなたがたの天の父は、求める者に良い物を下さるにちがいない。」
と言われ、
神に頼る者には本当に必要なものを与えてくださると
保証されています。
こうして私たちには自らの揺れる思いではなく、
神の思いで願い、
求める道が開かれてくるのです。
 大相撲の熱戦が繰り広げられてきましたが、
ある時解説者が次のように話しているのがとても印象的でした。
「一番強い人が一番基本に忠実だから強いはずだ。」
それはしこ、てっぽう、ぶつかり稽古など、
お相撲さんにとって
最も基本となることに忠実に励んでいるということだったのです。
基本は面白いものではないかもしれません。
むしろ煙たがれ、
派手なものを求めたくなるものです。
けれども、
表にあらわれるものの背後には基本の積み重ねがあり、
いかにこれに打ち込むかが重要になります。
 ところで、この基本は「基になる本」という字を使います。
「本に基礎を置く」と言い換えてもよいでしょう。
そしてこれこそキリスト教の生き方そのものです。
「ザ・ブック」本の中の本といえば、それは聖書です。
それならば、と聖書を読んでみますと、
漫画を読むように面白くありません。
絵も写真もなく、
聞いたことのない人名や地名がカタカナで次々と出てきます。
しかし、そこで飽きないでじっくりと読んでいきますと、
やがて一つの出会いが起こります。
それは聖書の主人公、
キリストとの出会いです。
基本に忠実に、
そこに私たちの命の源なる方との出会いがあり、
私たちの魂が潤されるのです。
 前回の日曜日は、ペンテコステという日曜日でした。
この日は聖霊降臨日とも呼ばれ、
聖霊が降られたことを記念する日です。
 イエス・キリストは十字架にかけられ、
三日目に復活されました。
その後、弟子たちや多くの人々の前に現れて、
やがて天に昇られました。
でもその前に、私が去っていっても心配しなくてよい、
いつまでも私はあなたがたと一緒であると約束してくださいました。
 でも果たして、姿が見えなくても
いつまでも共におられるなどということができるのでしょうか。
この不可能を可能にしたのが、
聖霊が降られたということです。
ただ単にキリストの力が下ってきたとか、
キリストのことを教えてくれる知恵を授かったというのでも、
私たちがキリストを知るのに大きな助けになるかもしれません。
けれども、
それでは私がいつも共にいると言われた約束は嘘になってしまいます。
 聖霊が降られるということは、
私たちの目にはイエスという人間の姿でキリストはおられなくても、
聖霊という個々人に宿るということで共にいてくださるのです。
この聖霊なる神が共にいてくださるからこそ、
私たちの歩みは孤独ではなくなり、
主イエス・キリストがまことの慰め主、
助け主として歩んでくださるのです。

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